ラットレースよりも怖いこと・・・
今日考えたいのはラットレースよりも怖いこと・・・です。
以前、私は毎日がラットレースに巻き込まれていると発狂しながら、このブログにラットレースに対する記事を書きました。
しかしその後、私はラットレースという人生とは違う、ある恐怖の仕組みにきづいてしまったのです。
※ちょっと衝撃的かも知れませんが、これが事実です。そして現実です。
この現実を知りたいのであれば、どうぞ、お読みください。
ただし、人生がラットレースみたいなかわいいものではないのでご注意を・・・(ただし、グロはございません。)
それはある人間の歴史において悲しい記憶を一つご紹介する必要があります。
それは、ナチスドイツの考え出した恐ろしい拷問のこと。
ナチスドイツはユダヤ人虐殺などを行った歴史がありますが、その中で考え出したある拷問方法があります。
それにはまず外の時間の経過がわからないような場所に人を隔離します。
そこには監視がピストルを向けています。
その前で、囚人は2つのバケツを渡されるのです。一つには水が入っておりもう一つは空っぽです。
その2つのバケツを使って、水を交互にひたすら移し変えさせるのです。
バケツから水がこぼれれば、監視に撃ち殺されます。そして、水を交互に移し変えることをやめても殺されます。
この条件下でこの単調な作業を続けると、人は自ら死を選ぶというのです。
時間のわからない空間で無意味な作業を行い続けると、人は最終的に自ら死を選ぶことをナチスドイツは発見したのです。
この理論を知った時、私はあることに気づいたのです。
それは、現代においても、無意味な毎日を過ごしていれば、人は何かしらの死を選ぶということです。
その死は単に自殺という肉体的な死だけではありません。
精神的な死にいったものも含まれるのです。
それは、人生に、おいて妥協することです。
人生はこんなもんなんだ・・・
みんなそう言っている・・・
そんな挑戦を止めた瞬間こそが、人が精神的な死に至ることであると思うのです。
現代社会において、無意味な毎日はバケツに水を交互に入れ続ける行為と同じです。
就職した後、何も考えることなく生きていたり、どこかで妥協してしまい、腐っているようでは、人生をバケツに水を交互に入れるくらい無意味にしているのと同じなのです。
ラットレースはいわば檻の中で飼われているのを想像すると分かりやすいかもしれません。
今回の精神的な死はいわば、人生の拷問です。
あなたも、自ら精神的な死を選んでいませんか?
もしくは、どこかで人生に妥協して死まって、無意味なことを繰り返していませんか?
だとしたら、今すぐその状況に気づき、行動に起こすことです。
人生の拷問を打破するために、私が提案したいことが一つあります。
それは、今ある現状を自分なりに意味付けして考えるということです。
これは、ナチスドイツ政権下のゲットーで生き抜いた心理学者、ビクトール・フランクルの考え方を応用しています。
彼は家族を殺され、強制収容所に送られました。絶望のどん底にいる彼はこの状況を心理学者として世界に知らせる義務が自分にはある・・・
そう使命感を持ち、自らの人生に意味を見いだしたのです。
彼いわく、意味を見いだした人々は死んだ人間の肉も食べたそうです。
意地でも生き抜くという、強い信念があったといい
ます。
それは、この強制収用所を出れば自分を待っててくれる好きな人がいる。必ず家族とまた再会する。みたいな強い人生への意味付けをしていたからだそうです。
我々の人生も同じです。
たとえバケツに入った水を交互に入れ替えるような無意味な毎日でも、自分なりの意味を見いだせたなら、絶対にあなたは腐ることもなく、精神的な死を向かえることもなくなるでしょう。
今、こんなに毎日苦しみ続けるのは将来人の上に立った時に人の痛みを知るためだ・・・
今、こんなに周りよりも出遅れているのは、誰よりも成功するために、心身ともに成長する機会が与えられているからだ・・・
今までの失恋も、これから訪れるベストパートナーと巡り会うためだ・・・
あなたなりの意味付けをするのです。
そして行動するのです。資格試験を受けてもいいし、セミナーに行ってもいい。
仕事をやめる決意をしても、転職を決意をしてもいい・・・
まるで、ユダヤ人が強制収用所から抜け出すために、夜な夜なトンネルを堀続けたように・・・
コツコツと行動し続けるのです。
今こそ、人生の拷問から抜け出すために、今日から行動を起こしていきましょう!!
代々木上原のスタバにて・・・
虎